夏八木勲さんの長女が乳がんを患い、2011年に亡くなっていたことを知っていましたか。
悲しみを周囲に知らせることもなく「数日間、休みが欲しい」とだけ告げた夏八木さん。
病魔に侵されながらも鎌倉や湘南の風景を撮り続けた娘、そして自らも膵臓がんを隠して最後まで仕事を続けた父。親子で全力で「今」を生き抜いたその生き様に、思わず胸が締め付けられます。
・夏八木勲の長女が乳がんを患い2011年に亡くなった経緯と父の姿
・次女ことさんの現在の活動と夏八木家の家族エピソード
・妻まり子との馴れ初め、夏八木勲の死因と晩年の生き様
夏八木勲の娘が乳がんを患った真相と父の悲しみ
夏八木勲さんには2人の娘さんがいました。
長女さんが乳がんを患い、闘病の末に2011年に亡くなられたことは、当時ほとんど公には知られていませんでした。
プライベートと仕事を徹底して切り離すことで有名だった夏八木さんらしい、胸が締め付けられるようなエピソードがそこにはあります。
長女は写真家、乳がんとの闘い
夏八木勲さんの長女さんは、写真家として活動されていました。
父親であるお父さんの写真も撮られており、学生時代に撮ったパイプをくわえた夏八木さんの写真は、夏八木さん本人が自宅に飾り、長らく気に入っていたというエピソードが残っています。
父の役者としての迫力と渋みを、娘ならではの視点で切り取った一枚。
お父さんが気に入っていたというのも、なんかわかる気がしますよね。
しかし、そんな才能ある長女さんに病魔が忍び寄ります。
乳がんを患っていたといいます。
いつ頃から発症したのか、治療の詳細については公表されておらず不明な部分も多いですが、乳がんと闘いながらも、自分が育った鎌倉や湘南の風景を撮り続けていたことは、知人の証言として複数の媒体が伝えています。
カメラを手に、故郷の海と山を写し続ける。
病気と向き合いながら、それでもシャッターを切り続けた長女さんの姿を想像すると、正直、読んでいて胸が痛くなりました。
乳がんの発症時期・経緯
乳がんの具体的な発症時期や治療内容については、夏八木さん自身が周囲に明かしていなかったこともあり、詳細は不明な部分が多いです。
ただ、2011年に亡くなられていることから、少なくともその数年前から闘病されていたと推測されます。
乳がんは早期発見・早期治療が重要な疾患であり、闘病期間中も長女さんが写真家としての仕事を続けていたということは、その精神的な強さを物語っています。
病魔に侵されながらも撮り続けた鎌倉の写真
乳がんと闘いながらも、長女さんはカメラを手放しませんでした。
撮り続けたのは、自分が育った鎌倉や湘南の風景。
夏八木勲さんが30年以上愛した街であり、長女さんにとっても故郷ともいえる場所です。
海、山、路地、そこに息づく人々の暮らし。
病魔に蝕まれながらも、その景色を記録しようとした姿は、写真家としての矜持と、自分が生きた証を残したいという思いの表れだったのかもしれません。
自分の残り時間を感じながらも、大切な風景を撮り続けた長女さんの生き方は、俳優として最後まで現場に立ち続けた夏八木勲さんの生き方と重なります。
親子で、それぞれの形で「今できることをやり切る」という姿勢を貫いた。
血は争えないというか、夏八木さんの生き様が娘さんにも確かに受け継がれていたんだなと感じます。
そして2011年、長女さんは亡くなられました。
享年については公表されていません。
娘の死を誰にも知らせなかった父の選択
長女さんが亡くなったとき、夏八木勲さんはどうしたか。
事務所に「数日間、休みが欲しい…」と伝えただけでした。
それだけです。
周囲にほとんど知らせなかったといいます。
親友や家族の話を外では一切しない、という姿勢を最後まで貫いた結果がこれです。
これは…さすがに気の毒だと思いました。
愛娘を乳がんで失うという、これ以上ない悲しみを胸の奥深くに仕舞い込んで、数日後には仕事に戻る。
そのプロとしての姿勢は尊敬しつつも、どれほどつらかったか、想像するだけで胸が締め付けられます。
夏八木さんの知人も、女性自身のインタビューでこう証言しています。
「ご自身の病気のことは、事務所にさえ詳しく報告していなかったそうです。夏八木さんは、ご家族の話も『役者にプライベートは関係ない』と、まったくしませんでした。しかし実は上の娘さんを一昨年、亡くされているんです。このときも周囲にほとんど知らせず『数日間、休みが欲しい…』と言っただけでした」
「役者にプライベートは関係ない」という哲学を、娘の死という最大の悲劇に際してさえも貫いた夏八木さん。その寡黙な背中に、どれだけの悲しみが宿っていたかは、想像するしかありません。
長女さんが亡くなった翌々年の2013年5月、夏八木さん自身も膵臓がんで旅立ちました。
娘に追うように…という表現がぴったりの、なんとも切ない時系列です。
次女ことさんは泥染色家として奄美大島で活動
夏八木勲さんの次女・ことさんについても、少し触れておきましょう。
ことさんは泥染色家と服飾デザイナーとして活動されており、現在は奄美大島を拠点に、主に泥染色家として仕事をされているということです。
泥染めとは、奄美大島の伝統的な染色技法で、泥の中に繰り返し布を漬けることで独特の色と風合いを出す、非常に手のかかる工芸です。
そのような伝統工芸に携わりながら、島で根を張って生きているということは、とても素敵な生き方だと思います。
父・夏八木勲さんとは違う世界で、自分のやり方で生きている次女さん。
長女さんを亡くし、父を亡くし、それでもこうして自分の道を歩んでいるんですね。
娘2人に支えられた晩年の夏八木
晩年の夏八木勲さんを支えた存在として、やはり娘さんたちの存在は大きかったと思います。
長女さんを2011年に亡くし、自身も2012年秋に膵臓がんを告知された夏八木さん。
それでも仕事を続け、2013年には6本もの映画撮影に参加していたというのですから、その精神力と体力は尋常ではありません。
2013年5月11日午後3時22分、夏八木勲さんは鎌倉市内の自宅で、妻・まり子さんと娘さんに看取られながら息を引き取りました。
愛する娘に先立たれた悲しみを抱えながらも、最後は残された娘さんとまり子さんのそばで静かに旅立てたこと。
それが、せめてもの救いだったかもしれません。
事務所社長は「話しかけると返事をしてくれそうなほどに安らかな顔でした」と語っています。
娘の死を胸に秘め、自らの病を隠し、最後まで俳優として生き抜いた夏八木勲さん。その生き様は、現代の俳優たちにとって「最後の昭和俳優」と呼ばれるにふさわしいものだったといえるでしょう。
夏八木勲の娘の乳がんを調べる人向けの関連情報
夏八木勲さんの娘さんの乳がんについて調べている方の多くは、夏八木さん自身のこと、妻との関係、そして俳優としての生涯についても気になっているはずです。
ここでは、関連する情報をまとめてお届けします。
妻まり子との馴れ初めと家族への姿勢
夏八木勲さんの妻・まり子さんは、日本人とイギリス人のハーフの一般女性です。
2人の出会いは、夏八木さんが東映の俳優として京都を拠点に活動していた頃。
まり子さんは昼間は京都のマネキン人形製造会社に勤めながら、夜は四条河原町にあった「サントリーバー」でバーテンダーとして働いていました。
美人で人気のあったまり子さんには毎日通い詰める常連客も多く、夏八木さんも最初はそんな客の一人でした。
しかし夏八木さんは次第にサントリー角瓶のボトルを入れ、週3回ほど通うようになり、カウンター越しにまり子さんを口説き始めます。
まり子さんに熱を上げていたライバルの学生が、悔しさのあまり素手でグラスを割ってしまったというエピソードからも、当時のまり子さんの人気ぶりと、夏八木さんの猛アタックぶりが目に浮かびますよね。
口説き始めてから数か月後、夏八木さんが「今度、東京へ行くことになった」と店に来なくなると、まり子さんも同時期に店を辞めています。
1968年、夏八木さん29歳のとき、まり子さんと結婚。2人の娘を授かりました。
家庭では「最悪のパパであり夫」を自称した夏八木さん。
「一緒に遊ぶこともしないしサービスはゼロ。あくまでも自分中心」というほど、子どもとの時間より仕事を優先する生活でした。
それでもまり子さんは夫を責めませんでした。
夫婦円満の秘訣を聞かれると「夫が家にいないから」とチャーミングに答えていたといいます。
家では仕事の話を一切しない夫の作品を、公開されてからはじめて見るのがまり子さんの楽しみだったという話は、なんともユニークな夫婦のかたちですよね。
仕事に全力で、でも妻にとっては謎に満ちた存在でもあった夏八木さんを、まり子さんはずっと側で支え続けました。最後もまり子さんが夫の死を看取っています。
夏八木勲の死因は膵臓がん、手術を拒否した理由
夏八木勲さんの死因は膵臓がんです。
2012年秋、フジテレビのドラマ「ゴーイングマイホーム」の撮影中に膵臓がんが発覚しました。
告知したのは妻のまり子さんで、発覚時にはすでにかなりステージが進行していたといいます。
膵臓がんは「早期発見が難しく、進行が速い」難治性のがんとして知られています。
5年生存率は約10%と極めて低く、発見時には多くのケースで転移や進行が見られます。
夏八木さんも発覚時には相当進行していたとみられています。
しかし夏八木さんは、手術を拒否しました。
その理由は明快です。
手術をすれば撮影しているドラマを降板しなければならず、その後の仕事復帰の見通しも立たないから。
「夏八木さんの思いは手術を拒否して仕事をするということだけでした」とテレビ局関係者は証言しています。
抗がん剤による化学療法を選択しながらも、入退院を繰り返しつつ現場に立ち続けた夏八木さん。
亡くなった2013年には6本もの映画撮影に参加していたというのですから、驚くしかありません。
是枝監督だけへの告白
夏八木さんは病名を公表しませんでしたが、唯一、是枝裕和監督にだけ病状を打ち明けたといいます。
その理由は「芝居がやりにくくなると申し訳ないので、共演者・スタッフには内緒にしてほしい」というもの。
自分の状態を知らせつつも、相手への配慮を忘れない。
最期まで「現場に迷惑をかけたくない」という思いが行動のすべてに貫かれていたことがわかります。
「ゴーイングマイホーム」の最終回では、夏八木さんが演じる父親の葬儀シーンがありました。
画面には映らないのに、夏八木さんは「良い予行演習になるから」と自ら棺の中に入ったといいます。
その言葉を今あらためて読むと、なんとも複雑な気持ちになりますね。
2013年5月11日午後3時22分、夏八木勲さんは鎌倉市内の自宅で静かに息を引き取りました。享年73歳。膵臓がんによる死でした。
葬儀は本人の遺志により、2013年5月15日に家族だけの密葬で執り行われました。
所属事務所からは「最後まで俳優として生き抜いた」というコメントが発表されています。
福山雅治との共演が映した父の背中
夏八木勲さんと福山雅治さんは、2本の作品で共演しています。
1本目はNHK大河ドラマ「龍馬伝」(2010年)。
福山さんが主人公・坂本龍馬を演じ、夏八木さんは松平春獄役を担いました。
2本目が映画「そして父になる」(2013年、是枝裕和監督)。
この作品で夏八木さんは父親役を演じ、福山さんが主演を務めました。
この映画が、その年のカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞します。
公式上映会では10分以上のスタンディングオベーションが続くという快挙でした。
しかし福山さんがカンヌ入りする直前、5月11日に夏八木さんは旅立っていました。
カンヌの会見に臨んだ福山さんは、父親役を演じた夏八木さんに触れて、「夏八木さんが、きっと観ていてくれているという感じがしました」と語り、亡き共演者への思いを表現しました。
「そして父になる」の映画の中で、夏八木さん演じる父親が福山さんに”家族の大切さ、血縁の重要性”を説くシーンがあります。
その演技を、会場でスクリーンを食い入るように見つめていたという証言も残っています。
長女を亡くし、自らも病と戦いながら、それでも「父親の背中」を演じ続けた夏八木さん。
そこには、言葉にならない何かが込められていたのではないでしょうか。
「そして父になる」は、夏八木勲さんの父としての悲しみと、俳優としての誇りが交差した、最後の傑作のひとつとなりました。
夏八木勲の経歴と代表作
夏八木勲さんは1939年12月25日生まれ。
東京都足立区北千住の出身で、実家は酒屋を営む一家の5人兄弟(兄・姉・妹2人)の3番目として生まれました。
身長176cm、血液型A型。趣味は登山とヨットで、スポーツが得意な少年でした。
学生時代から空手道場に通うなど文武両道で、東京都立墨田工業高等学校卒業後、1年浪人して慶応義塾大学文学部仏文科へ入学します。
在学中に演劇の世界に誘われた夏八木さんは、文学座研究所へ入所。
しかし身が入らず選考から外れてしまい、次に俳優座養成所に入所します。
俳優座15期「花の15期生」
俳優座養成所の同期は、後に「花の15期生」と呼ばれる錚々たるメンバーでした。
原田芳雄さん、地井武男さん、前田吟さん、小野武彦さん、栗原小巻さん、村井國夫さん、高橋長英さん…と、日本の映画・ドラマ界を担う俳優たちが勢ぞろい。
前田吟さんは夏八木さんの当時の印象を「英語ペラペラの慶應ボーイ」と表現しています。
慶応大学を中退し、東映と契約した夏八木さんは1966年に映画「骨までしゃぶる」でデビュー。
同年「牙狼之介」で早くも主演を果たし、その野性的な魅力で一躍注目を集めます。
1968年に東映を退社し、東京へ移ってからは、映画だけでなく舞台やドラマへと活動の幅を広げていきます。
同期の7人で「どりいみい7」という事務所も立ち上げました。
代表出演作品
主な出演作品は以下のとおりです。
| 作品名 | 年 | 備考 |
|---|---|---|
| 牙狼之介 | 1966年 | 東映デビュー作・初主演 |
| 野性の証明 | 1978年 | 高倉健と共演、北野隆生役 |
| 戦国自衛隊 | 1979年 | 千葉真一と共演、長尾景虎役 |
| 白昼の死角 | 1979年 | 主演・鶴岡七郎役 |
| 希望の国 | 2012年 | 主演。毎日映画コンクール男優主演賞受賞 |
| そして父になる | 2013年 | カンヌ国際映画祭審査員賞受賞作 |
| 永遠の0 | 2013年 | 山崎貴監督 |
| 龍馬伝(NHK大河) | 2010年 | 松平春獄役 |
| プロポーズ大作戦 | 2007年 | じぃじ役・「明日やろうはバカ野郎だ」の名言 |
生涯で映画・ドラマ300本以上に出演した名優でした。
鎌倉を愛し続けた俳優の晩年
夏八木勲さんが鎌倉に移り住んだのは、仕事の拠点を東京に移してから。
仕事に行くには遠くて不便にもかかわらず、30年以上も鎌倉に住み続けました。
鎌倉の自宅は深緑色の洋風住宅で、夏八木さんが自らデザインしたこだわりの一軒家です。
地元の「チームサムライ」という市民団体の名誉世話人として、まちづくりにも積極的に参加。
鎌倉への愛着は相当なものでした。
趣味のヨットを楽しめる環境でもある鎌倉は、夏八木さんにとって仕事から離れて「自分でいられる場所」だったのかもしれません。
長女さんも、その鎌倉と湘南の風景を写真に収め続けていました。
夏八木さんにとっても、長女さんにとっても、鎌倉は特別な場所だったのでしょう。
病気が進行した2013年のゴールデンウィーク中、夏八木さんは都内の撮影所に衣装合わせに出向いていたといいます。
5月9日に突然容体が急変し、一時入院しましたが、本人の強い意思で自宅に戻り、そこで静かに息を引き取りました。
愛した鎌倉の自宅で、愛する家族に囲まれた最期。
それが夏八木勲さんの「散り際」でした。
高倉健や千葉真一との友情
夏八木勲さんの俳優としての生涯に欠かせない存在が、高倉健さんと千葉真一さんです。
高倉健さんとは1978年の映画「野性の証明」で共演しました。
撮影現場で夏八木さんが挨拶を終えると、何も言わずに腕立て伏せや腹筋運動を始めたといいます。
その姿を高倉健さんが感心したように眺めていたというエピソードは、両者のプロ意識と、無言の中に生まれた尊重関係を象徴するようです。
千葉真一さんとの出会いは映画「あゝ同期の桜」(1967年)。
共演して意気投合し、生涯の親友となりました。
千葉さんが代表を務める「JAC(日本アクションクラブ)」で若い俳優たちと一緒に稽古をするなど、長年にわたって切磋琢磨し続けた仲です。
膵臓がんのことを明かした数少ない人物のひとりが、この千葉真一さんと家族でした。
肉体を鍛え、役作りに徹し、プライベートを見せない。
そんな夏八木さんにとって、千葉さんは本当の意味で「同志」と呼べる存在だったのでしょう。
昭和を代表する名俳優たちとの縁の中で育まれた夏八木勲さんの演技と生き様は、日本映画の歴史に確かな足跡を残しています。
夏八木勲の娘と乳がんのまとめ
- 夏八木勲さんには娘が2人おり、息子はいない
- 長女は写真家(カメラマン)として活動していた
- 長女は乳がんを患いながらも、育った鎌倉や湘南の風景を撮り続けた
- 長女は2011年に死去。夏八木さんはその死をほとんど周囲に告げなかった
- 事務所への連絡は「数日間、休みが欲しい」のひと言のみだった
- 次女・ことさんは泥染色家・服飾デザイナーとして奄美大島で活動している
- 夏八木さんは「役者にプライベートは関係ない」という哲学を生涯貫いた
- 妻・まり子さんは日本人とイギリス人のハーフの一般女性で、1968年に結婚
- 2人は京都の「サントリーバー」で出会い、夏八木さんがカウンター越しに口説いた
- 妻の夫婦円満の秘訣は「夫が家にいないから」というユニークな回答
- 夏八木さん自身は2012年秋に膵臓がんが発覚した
- 手術を拒否し、抗がん剤治療を続けながら仕事を継続
- 是枝裕和監督にのみ病状を告白、共演者・スタッフには秘密にした
- 亡くなる直前まで6本の映画撮影に参加していた
- 2013年5月11日午後3時22分、鎌倉市内の自宅で妻と娘に看取られながら死去。享年73歳
- 映画「そして父になる」でカンヌ審査員賞受賞、福山雅治が「夏八木さんが見てくれている」と語った
- 代表作は「牙狼之介」「野性の証明」「戦国自衛隊」「希望の国」「永遠の0」など300本以上
- 高倉健さんと「野性の証明」で共演、無言の中に尊重し合う関係があった
- 千葉真一さんとは生涯の親友で、数少ない病名の告白先のひとりだった
- 俳優座「花の15期生」の同期には原田芳雄、地井武男、前田吟らが名を連ねた
- 鎌倉を愛し30年以上住み続け、そこで最期を迎えた


